イエス・キリスト

--その偉大なる生涯--

1.イエスとの出会い

 「このピリポがナタナエルに出会って言った、『わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った』。」

     新約聖書ヨハネによる福音書1章45節

 だいぶ前のことでしたが、角膜移植のドキュメントをテレビで見たことがあります。幼いころソコヒで失明し、それ以来暗黒の世界に閉じ込められていたひとりの少女が、ある医大の教授の心をこめた手術によって、再び光の世界によみがえってゆく課程を描いた感激的なフィルムでした。少女がこの教授とめぐりあったことはほんとうにさいわいなことでした。この教授との出会いが少女を暗黒の世界から光明の世界に連れもどすきっかけとなったのです。そうです。この出会いが少女の全生涯を大きく変えてしまったのです。

 出会い--それはなんと不思議な、また決定的なできごとでしょうか。ある人とめぐりあったばかりに、大事な一生をめちゃめちゃにしてしまったという人がわたしたちのまわりにも少なからずいるはずです。またその反対に、この人とめぐりあったおかげで、人生の破局をかろうじて切り抜け、すっかり立ち直ったという人もたくさんいます。生かすのも出会いですが、殺すのも出会いです。わたしたちがだれと出会うかによって、与えられた人生が大きく変わってゆくのです。

 人間は、金持ちでも貧乏人でも、社会的に名の通った人でも無名の一般庶民でも、みな同じような願いをもっているものです。それは絶対的で、永遠に変わることのないなにものかにめぐり会いたいというのぞみです。自分をほんとうに生かしてくれるもの、自分を全く認め、受け入れてくれるもの、生きる意味を教えてくれるもの、希望と勇気を与えてくれるもの、わたしたちは、みなそのようなものにめぐりあいたいとのぞみながら、人生という二度ともどってくることのない旅路を歩みつづけているのです。

 人生の旅路の途上で、わたしたちはさまざまな人々とめぐり会い、出会います。そしてそれらの出会いの中から友人や、恋人、また生涯の伴りょなどを選びとっていくのです。親にも打ち明けられないようなことがらを話せる友人がいるのは、どんなにかすばらしことでしょう。聖書にも、「兄弟よりもたのもしい友もある」(旧約聖書言18章24節)とありますが、このような人間不信の時代に血をわけた肉親よりもはるかにたのもしい友人と出会うことのできた人はほんとうにさいわいです。

 また、心と心のふれ合い、魂と魂の結びつきによって結ばれた夫婦もしあわせな人々です。夫婦の結びつきというものも、考えてみれば不思議なものです。かつては、縁もゆかりもない全くの赤の他人だったのです。環境も、背景も、趣味も、気質もそれぞれ違っているひとりの男とひとりの女だったのです。それが、まるで見えない糸にでもあやつられているようにめぐりあい、ひとりの男、ひとりの女から、夫婦になってゆくのです。出会いの不思議をまざまざと感じます。箴言(しんげん)の著者が、

 「わたしにとって不思議にたえないことが三つある、

  いや、四つあって、わたしには悟ることができない。

  すなわち空を飛ぶはげたかの道、

  岩の上を這うへびの道、

  海をはしる舟の道、

  男の女にあう道がそれである。」

     (旧約聖書箴言30章18節、19節)

 と言ったのもなるほどとうなずけるような気がします。

 

神との出会い

 信仰とは出会いの経験です。それはちょうど親友や伴りょに出会って、求めていた、いこいとやすらぎを得るように、有限な存在である人間が、無限なる神様に出会って、永遠につづくいこいとやすらぎを得ることなのです。神様の限りないふところにいだかれて、身も心も安らかに息づくことなのです。アウグスティヌスという古代のキリスト者は、自分の過去の生涯をふり返って、このような告白をしています。

 「わたしは、神のみ手にいだかれるまでは魂のやすらぎを見いだすことがない。」わたしたちも、アウグスティヌスのように、神のみ手のうちにいだかれ、永遠のやすらぎを得たいものだと思います。

 それでは、どうすれば神様に出会うことができるのでしょうか。聖書は、真の神様は「世々の支配者、不朽にして見えざる」おかたであると宣言しています。(新約聖書テモテへの第1の手紙1章17節参照)見えない神様の存在を信じるだけでもそうやさしいことではないのに、ましてや、見えない神様に出会うなどということは、まるでできない相談のような気さえします。しかし、あきらめるのは早すぎます。実は、イエスのでしのひとりであったピリポという人でさえ、わたしたちと寸分違わないことを考えていたのです。ある日のこと、ピリポは真剣な面持ちでイエスのところにやってきました。

 「ピリポはイエスに言った、『主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します。』」(新約聖書ヨハネによる福音書14章8節)

 これはたいへんむずかしい質問です。神様は見えないおかたであるといわれているのに、その神様を見せてくれというのですから、池の水面に映った月をとってくれとせがむ子供の願いよりもはるかにむずかしい願いです。日本の生んだ世界的な伝道者であった賀川豊彦氏が、あるとき、ひとりの老人に「おれに神様を見せてくれれば、そのキリスト教とやらを今すぐにでも信じてやるよ」と言われて一瞬返すことばに窮したのですが、ややあって、「よしきた、おじさん。見せてやろう。そのかわり、おれもいちばん大事なものをみせてやるんだからなあ、あんたもいちばん大事なものを見せてくれよ」といって、老人にいのちを見せてくれるように迫り、たくみに難問をかわしたということです。

 この機知に富んだ答えに、わたしたちも、思わずなるほどとうなずきますが、しかしよく考えてみると、なんだかいちばん大事なところをはぐらかされたような気がしてくるのです。一応はうなずけるのですが、なんだかもやもやとしたわだかまりが心の片すみに残るのです。それは、ピリポが願ったように、もし出会うことができれば、満足するという気持ちが、わたしたちの心のどこかにひそんでいるからです。

 ピリポの真剣な質問に、イエスはいったいなんと答えられたでしょうか。

 「イエスは彼に言われた、『ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。』」(新約聖書ヨハネによる福音書14章9節)

 これはなんと驚くべきことばでしょうか。イエスを見たものは、神様を見たというのです。見えない神が、イエス・キリストにおいて見えるようになったというのです。イエスのこの大胆な宣言には、いささかのけれん味もありません。なんだかいちばん大事なところをうまくはぐらかされたようなあと味の悪さもありません。わたしこそが、あなたの見たがっている神そのものなのですよという、決定的な宣言だからです。

 「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だ けが、神をあわらしたのである。」(新約聖書ヨハネによる福音書1章18節)

と、聖書はわたしたちに告げています。今から約二千年前、パレスチナの地に人の子として誕生したナザレ人イエス・キリストは、ただたんにひとりの人間であったばかりではなく、実は神ご自身のあらわれであったのです。これは非常に大事なことなのです。それは、見えないものを神として信じる場合、えてして、いわしの頭も信心から式の迷信的な信仰に陥ってしまう危険があるからです。「神様が実際にいるかいないかなどという議論はどうでもよろしい。とにかく、そう信じることによって気持ちが安まり、明るく、楽しく暮らせるようになればそれで十分だ。なにも今さら目くじら立てて……」などとおっしゃるかたにとっては、ほんとうは神様などは初めから用がないのです。しかし、少なくともまじめな気持ちで、あるいは、わらにでもすがりつきたいような思いで神様を求めている人にとっては、これは重大な問題なのです。

 たしかに、聖書の信仰は見えない神を神として認める信仰です。しかし、それは全く見えず、全く知られないものの上に立った、あやふやでいいかげんな信仰ではなく、イエス・キリストによってあらわされた神を見、聞き、触れた人々の証言の上になり立っているものなのです。聖書という書物は、あのナザレ人イエス・キリストが、実に神のあらわれであったという事実の証言なのです。

 「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。」(新約聖書ヨハネによる福音書五章三九節)

 信仰--イエスとの出会い

 聖書の信仰は、なにやらむずかしい原理を頭に詰め込むことではありません。また宇宙の一大法則を発見したり、解明したりすることでもありません。それは、人間の肉眼に見えるようにされた、このイエス・キリストに出会い、彼に見いだされ、彼を見いだす全存在的な経験なのです。わたしたちは、一生涯の間に、さまざまな出会いを経験します。しかし、イエス・キリストとの出会いこそがわたしたちを永遠に生かし、むなしい人生に意味を与えてくれのです。この出会いにおいてわたしたちは初めて大いなるかたの無限なるみ手にいだかれるのです。

 新約聖書の最初の四つの書は、すべて「福音書」とよばれていますが、それは、これらの四つの書が、イエス・キリストとの出会いを通して真のよろこびを味わった人々が、その出会いの歴史をそれぞれに書きつづったものだからです。つまり、これらの四つの福音書は出会いの証言であるわけです。わけてもこれらの福音書に登場する十二人のでしと、イエス・キリストとの出会いは、出会いの経験を得たいと心からのぞんでいるわたしたちに、大きななぐさめと励ましを与えてくれるものです。

 「その翌日、ヨハネはまたふたりの弟子たちと一緒に立っていたが、イエスが歩いておられるのに目をとめて言った、『見よ、神の小羊』。そのふたりの弟子は、ヨハネがそう言うのを聞いて、イエスについて行った。イエスはふり向き、彼らがついてくるのを見て言われた、『何か願いがあるのか』。彼らは言った、『ラビ(訳して言えば、先生)どこにおとまりなのですか』。イエスは彼らに言われた、『きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう』。そこで彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を見た。そして、その日はイエスのところに泊まった。時は午後四時ごろであった。ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、『わたしたちはメシア(訳せば、キリスト)にいま出会った』。そしてシモンをイエスのもとにつれてきた。イエスは彼に目をとめて言われた、『あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパ(訳せば、ペテロ)と呼ぶことにする』。

 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされたが、ピリポに出会って言われた、『わたしに従ってきなさい』。ピリポは、アンデレとペテロとの町ベツサイダの人であった。このピリポがナタナエルに出会って言った、『わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った』。」(新約聖書ヨハネによる福音書一章三五節ー四五節)

 イエスと、のちに彼のでしとなった少人数の人々との最初の出会いは、単に、これらの十二二人の人々の生涯を変えたばかりではなく、それ以後の世界の歴史を大きく変えるほど重大なできごとでした。全ヨーロッパを手中におさめようとし、ついに果たせずセント・ヘレナの孤島に流されたあの高慢なボナパルト・ナポレオンですら、「余は武力をもって世界を征服しようとしたがついに果たせなかった。しかし、あのナザレの大工イエスは、愛の力によってそれを成就した」と認めざるを得なかったほど、大きな影響をおよぼしたのです。

 これらのでしたちは、異なった背景、職業、性格、気質の人々でした。かれらの人生観や、目的や、動機などもそれぞれ異なっていたのです。驚くべきことには、イエスのもとにやって来たそのときでさえ、醜い利己心や荒々しい感情の持ち主であり、名誉欲や低俗な野心で心がいっぱいだったのです。しかし、それにもかかわらず、かれらはイエスに出会った瞬間、ちょうど鉄が磁石にすいつけられるように、すっかり魅了されてしまったのです。イエスのうちに、絶対にして永遠なるものを見いだしたかれらは、過去のすべてをなげうってまでも、イエスに従い抜く決心をしたのです。その後の数年間、かれらはさまざまの困難な問題や信仰上の危機に直面しましたが、最後までイエスとの最初の出会いの経験にささえられて、信仰を持ちつづけることができたのでした。

 それは、かれらがイエスというおかたを心から信頼していたからでした。イエスの教えに耳を傾けたばかりではなく、イエスの人格にまったく傾倒していたからでした。もちろん有限な人間のことです。イエスのすべてを理解したわけではありませんでした。

 「弟子たちは初めにはこのことを悟らなかったが、イエスが栄光を受けられた時に、このことがイエスについて書かれてあり、またそのとおりに、人々がイエスに対してしたのだということを、思い起こした。」(新約聖書ヨハネによる福音書一二章一六節)

 でしたちは、しばしばかれらの理解力をはるかに越えるようなことを見聞きしました。しかし、それにもかかわらず、かれらはイエスを信じつづけたのです。すべてを理解したあとでなければ、愛したり、信じたりすることができないというのではありません。愛し、信じるためには、すべてを知りつくす必要はないのです。愛や信仰は、知識以前の人格的な出会いの経験だからです。ある人が「人生は理論よりも深い」と言いましたが、このことばを「出会いは理解よりも強い」と言い替えることができると思います。このような出会いを通してでしたちの心にしっかりと刻みつけられたイエス像は、長い年月を経れば経るほどますます深められ、豊かにされていったのです。

 すばらしきイエス・キリスト

 わたしたちは、老若男女を問わず、みなヒロー(英雄)を待ちのぞんでいます。この人なら自分の命をささげても惜しくないと思えるような人に出会いたいと願っています。そのような期待にこたえられるのは、ただイエス・キリストだけです。神であり、人間であったイエスだけが、わたしたちのそのような望みを満たすことがおできになるのです。

 イエス・キリストがすばらしいおかたであるのは、まずかれがすばらしい人間像をわたしたちに示しておられるからです。福音書はいたるところで、人間イエスのすばらしさを描いています。彼は人間の魂の深みまで読みとることのできるおかたでした。 

「また人についてあかしする者を、必要とされなかったからである。それは、ご自身人の心の中にあることを知っておられたからである。」

      (新約聖書ヨハネによる福音書二章二五節)

 これは決して魔術的な読心力のことをいっているのではありません。人間理解の深さをさしていることばです。

 彼はまた、柔軟で、創造性に富んだ思考力の持ち主でもあられました。福音書に記録されたイエスのみことばを読むとき、彼のでしたちのように、わたしたちも、

 「これは、いったい何事か。権威ある新しい教えだ。」

      (新約聖書マルコによる福音書一章二七節)

と叫びたくなってしまいます。弱い者、しいたげられている者にあわれみを示すイエス、不正や悪に対してはきぜんとした態度をとるイエス、実力に富み、行動性豊かなイエスに出会うとき、わたしたちは、この人のうちに人間としての新しい可能性を見いだし、この人を通して新しい人間に生まれ変わりたいと願うようになるのです。

 この願いが裏切られることは決してありません。なぜなら、神の子イエスがその願いを実現させる力をわたしたちに与えてくださるからです。

 「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」(新約聖書ヨハネによる福音書一章一二節)

 イエスは、わたしたちに理想の人間像を示されると同時に、それに到達する力の秘けつを教えてくださいました。それは、この神の子であり、人の子であるイエスを信ずることです。人間としての可能性を実現し、またそれをはばんでいる人間の罪の問題をことごとく解決するために、彼は、三十数年の生涯をパレスチナの地で送り、十字架にかかって人類の罪のために死んでくださったのです。

 イエス・キリストの十字架の死が、わたしたちの罪の許しのための犠牲の死であったことを知るとき、わたしたちの心は感激でうちふるえます。わたしたちは、この人のためなら自分の生命をささげても惜しくないと思うような人に出会いたいと願っています。しかし、驚くべきことに、その人は、すでにわたしたちのために自らの生命をなげだし、わたしたちを救ってくださっていたのでした。

 「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。、、、しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」  (新約聖書ローマ人への手紙五章六節、八節)

 信仰とは、自分の生命をすててわたしたちに罪の許しと救いを与えられ、わたしたちが新しい人生を踏み出せるようにしてくださったこのすばらしいイエス・キリストと出会うことです。あなたは、すでにこのすばらしいイエスに出会っておられるでしょうか。もしまだでしたら、ぜひ、彼に出会い、彼を知り、彼を信じようではありませんか。そのとき、あなたは無限なるおかたの大いなるみ手にいだかれて、魂のやすらぎを得、新しい人に生まれ変わってゆくことができるようになります。

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