イエス・キリスト

--その偉大なる生涯--

2.最初のクリスマス

 「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」

   新約聖書ルカによる福音書2章10節、11節

 日本という国は、たいへんおもろしい国です。好奇心と模倣心がとても強く、何かめずらしい外国のものがあると、たちまちそれをとり入れてしまいます。しかも、換骨奪胎、本物とはだいぶ違ったものにしてしまうのです。わたしたちのまわりにもそうしたものが数多くありますが、その代表的なもののひとつに、クリスマスという年中行事があります。年中行事といったのは、日本では、クリスマスがデパートの大売り出しであり、クリスマス・ケーキの売り出し期間であり、クリスマス・プレゼントの交換の日ということになっているからです。クリスマスということばから、わたしたちがただちに連想するのは、サンタにケーキにプレゼントですが、これでは三題話にはなっても、クリスマスのほうとうの意味をつかんだことにはなりません。

 クリスマスということばはキリストにささげられたミサ、すなわち、キリストの誕生を祝ってささげられた礼拝という意味のことばがなまってできあがったものです。ですから、クリスマスの本来の意味は、神の子、イエス・キリストの誕生を祝う礼拝ということなのです。

 イエス・キリストがこの世に誕生されたことによって、わたしたちは新しい人生を歩めるようになりました。生きる意味を発見できるようになったのです。神の子、イエス・キリストの誕生は、わたしたちにそのようなさいわいをもたらしたのです。

 「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(新約聖書ヨハネによる福音書3章16節)

 そうです。クリスマスは、神がイエス・キリストという世界最大のプレゼントをわたしたちにくださったことの記念の日なのです。わたしたちは、愛するものにはすべてを喜んで与えようとします。同じように神様もわたしたちを深く愛しておられます。そして神様のすべてを与えようとしておられるのです。生命、太陽、美しい自然、喜びなど、すべての良きものを神様はわたしたちに惜しげもなく与えておいでになります。しかし、人間の最大の問題、すなわち、罪の解決のためにはそれらよりもっと貴重なものが必要とされたのでした。それは、神のみ子が人の子としてこの地上に誕生し、苦難と恥辱の生涯を送り、そして、最後には十字架の死をとげなければならなかったのです。

 神様はわたしたちに対する愛のゆえに、この大きな犠牲をお払いになりました。

 「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。」(新約聖書コリント人への第2の手紙8章9節)

 神のみ子、イエス・キリストは、栄光と賛美につつまれて全宇宙を統御していたおかたでした。そのかたが、わたしたちのために天の栄光を捨て、地上での生涯を送られたのです。地上での彼の生涯は、貧しく、苦悩に満ちたものでした。しかし、それもひとえに、わたしたちを富ませ、豊かにするためであったのです。神様のこのようなすばらしいプレゼントを、わたしたちも喜んで受け取りたいものです。そして、あらゆる点において真に富む者となりたいものです。

 

 時が満ちて

 当時、地中海沿岸一帯にかけての世界は、ローマ帝国によって統一され、統治されていました。ローマ帝国は、鉄の国ローマとも称されるほど、強大な軍事力をもっていました。そしてこの武力を背景に、ローマ帝国は諸国に圧政を加えていたのです。イエス・キリストが誕生した時代の皇帝は、賢帝のほまれ高いカイザル・アウグストでした。かれはローマ帝国初代の皇帝に即位したのち、有名なローマ法を確立し、諸国に通じる道路を整備し、人口調査を行うなど、その41年の治世の間、秩序と安寧の回復をはかり、繁栄をもたらそうとつとめました。この時代は「ローマの平和」(Pax Romana)とよばれますが、それは、皇帝アウグストのこうした努力によって、ようやく戦火がやみ、秩序と安寧が回復したからです。

 しかし、ほんとうの平和が訪れたでしょうか。人々の心に、やすらぎと平安がみられたでしょうか。真の平和が、武力によって得られるものでないことは、歴史がすでに証明しているところです。たとえ、政治上の平和が得られたとしても、それは、必ずしも心の平和を約束するものではありません。戦乱のちまたにも、強制された平和のうちにも、真の平和を見いだせなかった多くの人々は、かれらに真の平和を約束しているように見える、さまざまなものを求めていたのでした。 イエス・キリストが誕生された時代は種々さまざまな宗教が起こり、また栄えた時代でした。人々は、救いと永遠の生命を約束するそれらの宗教のうちに真の平安を見いだそうとして群がり集まったのです。東洋の宗教の神秘性と、ギリシャ、ローマの宗教の多神性とを巧みに結合させたこれらの新興宗教は、あやしげな儀式によって、人々に充実感を与えようとしました。しかし、これらの諸宗教は宗教的なこうこつ感を与えこそすれ、人々を真に生かす倫理、道徳的な力を与えるものとはならなかったのです。信仰は迷信にとどまり、単に心を酔わせるアヘンでしかなかったのです。

 一方、ローマ帝国内のあちらこちらでは、ローマの圧政に抵抗する根強い民族主義的な動きが見られるようになりました。失われた国家の主権を回復しようという悲劇は、特にユダヤ国家においては、はげしいメシヤ運動として展開されていったのです。しかし、テロや暴動を伴うメシヤ運動が、ローマのきびしい弾圧の的とならないはずはありません。そのたびごとに、かれらの悲劇はむなしく消え、代わりに、不満はますますつのる一方でした。

 「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。」(新約聖書ガラテヤ人への手紙4章4節、5節)

 イエスが、ユダヤの国、ベツレヘムの町でお生まれになったのは、このようなときでした。時は満ちていたのです。もう人間の手ではどうすることもできないほど行き詰まっていたのです。人々の不満はますますつのり、不安はさらに増大していました。かれらは毎日このように自問自答しなければなりませんでした。「わたしは、どうして生まれてきたのだろうか。いったいなんのために、無意味な人生を続けなければならないのだろうか。この苦しみは、いったい、いつ終わるのだろうか。」

 時は満ちていたのです。イエスがベツレヘムの町にお生まれになったのはそのようなときでした。「人間の危機は神の好機である」と言った人がいますが、ほんとうにそのとおりです。人間がせんかたつきたときこそ、最も機が熟したときなのです。なぜなら、そのとき、はじめてわたしたちは、人間の無力と有限とをいやというほど思い知らされ、人間の背後にあって絶えず守り導いておられる神に向かうようになるからです。

 時が満ちているのは、当時だけではありません。わたしたちの時代も、ほんとうに時が満ちているのです。各時代を通じて、現代ほど行き詰まり、動揺し、苦悩している時代はほかにありません。いったい、あすがどのように展開するのか予想すらできないのが、現代の状況です。このような問題が解決されるためには、きょう、イエス・キリストがわたしたちの心のうちに誕生しなければなりません。そのとき、わたしたちは、ほんとうの平和を得ることができます。そのとき、最初のクリスマスの夜、野宿していた羊飼いたちに与えられた約束がわたしたちにも成就するのです。

 「するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、『いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように』。」(新約聖書ルカによる福音書2章13節、14節)

 カイザル・アウグストは、「ローマの平和」をもたらしました。しかし、それは真の平和ではなかったのです。武力や外交上のとりひきによって得られる平和は決して長くは続かないからです。真の平和は、イエス・キリストの誕生によってもたらされた神の平和(Pax Dei)なのです。

 「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。」(新約聖書エペソ人への手紙2章14節ー17節)

 イエスの誕生

 新約聖書の冒頭、マタイによる福音書一章に、イエス・キリストの誕生の次第が次のようにしるされています。

 「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公になることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、『ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むだあろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである』。」(新約聖書マタイによる福音書1章18節ー21節)

 マリヤは、名もなく貧しいひとりのおとめにしかすぎませんでした。しかし、宇宙の王なる神は、そのような貧しき器を用いて、この世の救い主を世界におつかわしになったのです。グノーやシューベルトは、マリヤをたたえる美しいアベ・マリヤを作曲しましたが、わたしたちも、神のこのすばらしいわざを見るとき、賛美の歌をささげずにはおられなくなります。

 しかし、このイエスの誕生物語の真の主役はマリヤではありません。マリヤはわき役をつとめているにしかすぎないのです。この物語のほんとうの主役は、神様です。マリヤがイエスを宿したのは、神様が彼女の胎を開かれたからでした。ここに、神のみ子でありながら、同時に人の子でもあるイエス・キリストの神秘があるのです。 このような神秘は、人間の知性や理性の力ではきわめつくすことのできないものです。なぜなら、イエス・キリストの誕生こそ、人間の知性や理性をはるかに越えた神のふしぎであるからです。このできごとは、あのすばらしい神の子イエス・キリストに出会った者だけが、信仰によって、はあくしうる神のふしぎなわざなのです。

 聖書に記録されたイエス誕生の物語を初めて読むとき、思わず、

 「どうして、そんな事があり得えましょうか。」(新約聖書ルカによる福音書1章34節)

と言いたくなります。どうしても信じられないのです。当のマリヤでさえ初めは信じられなかったのです。まして、その場に居合わせたわけでもないわたしたちのことです。「どうしてそんな事があり得ましょうか。」といぶかったとしてもなんのふしぎがあるでしょう。

 信仰とは、ただやみくもに信じてしまわなければならないということではありません。疑いの心をほんのわずかでも持ってはならないというのでもありません。もしそうなら、なんの疑いもさしはさまないで幼子のようにすなおに信じられる人だけしか、信仰を持てないことになってしまいます。疑いは人間の常です。疑うことをしない人間などはあり得ません。マリヤも疑ったのです。しかし、疑いの果てに、信仰があるのです。疑って、疑って、疑い抜いたところに神への信仰が芽生えてくるのです。人間の思考、人間の計算、人間の企て、人間の力、それらすべてが動員され、しかもざせつしたそのところでわたしたちは神に出会い、神の力を発見するのです。

 神のみ子、イエス・キリストの誕生の物語は、わたしたちのこの神の無限なる力をまざまざと示してくれます。深く、底知れぬ神の創造の力、無から有をひき出し、死から生命をよび出す神の全能の力をあますところなく示しています。神のみ子、イエス・キリストの誕生は、人間の常の方法によってではなく神の特別な方法によって実現されました。それはこのような方法しかなかったからではありません。神は無から有を、死から生命をひき出すことのできるおかたです。ただ一つの方法に限定されるおかたではありません。神がこの物語のような方法をとられたのは、それが人間にとって最も意味深いことであったからなのです。それは、

 「神には、なんでもできないことはありません。」(新約聖書ルカによる福音書1章37節)

ということをわたしたちに告げ知らせるためであったのです。

 マリヤは自分の無力さに比べて、神の無限なる力がどれほど偉大であるかを悟ったとき、神様に無条件降伏をしました。

 「そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』。」(新約聖書ルカによる福音書1章38節)

 わたしたちの心の中にイエス・キリストが誕生されるためには、わたしたちも神様に無条件降伏をしなければなりません。

 その名はイエス

 富士五湖のひとつ、西湖の南岸に青木が原とよばれる広大な樹海が横たわっています。かつて何人かでこの樹海の一部を歩き回ったことがありますが、この原始林は樹海と呼ばれるのにふさわしく、行く手の見えぬ神秘の森でした。からみ合っている枝々をかきわけ、倒れている巨木をよぎる静寂の森の散策のひとときはあざやかな思い出として今でも脳裏に刻まれています。

 しかし、この原始林がいちばん美しい姿を見せてくれるのは、紅葉台とよばれる見晴らし台の上からながめるときです。ここに立つと青木が原の広大な緑の広がりにすっかり圧倒され、しばらくそこに立ちつくしてしまうことでしょう。青木が原の樹海のもっともすばらしいながめは、樹海の外で初めて得られるのです。

 わたしたちは、イエス・キリストの誕生についても、「木を見て森を見ず」という愚かしいことをしてはなりません。もしわたしたちが、イエスの誕生にまつわるふしぎと神秘にのみ目を奪われ、なぜイエスが人間として誕生されたかというたいせつな問題に思いをはせないなら、クリスマスの物語が伝えようとしている一番たいせつな事実を見失ってしまうことになります。

 「彼女は男の子を生むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである。」(新約聖書マタイによる福音書1章21節)

 イエスという名には、「神の救い」あるいは、「神は救い」という意味があります。名は体をあらわすといわれますが、これほどふさわしい名はほかにはなかったと思います。それは、イエスの誕生が神の救いの到来を意味していたからです。しかも、この救いは神が遠くから手をさしのべて一本の救い綱をたらし、おぼれかけている者を引きあげたいというようなことではなく、神みずからがいわばからだを張って、火の中に飛び込み、煙に巻かれて窒息している人を助け出したというようなことなのです。

 「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。」(新約聖書ヨハネによる福音書1章14節)

 神が裸になって人間のまっただ中に飛び込んでこられたとはなんと驚くべきことでしょうか。神のみ子イエス・キリストは、人間イエスとして誕生されることによって、人間との連帯性を深め、人間のさまざまな苦悩をわかち、そして人間の罪を自らの双肩にになって人間の救いを完成されたのです。

 「彼は侮られて人に捨てられ、

  悲しみの人で、病を知っていた。

  また顔をおおって忌みきらわれる者のように、

  彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

  まことに彼はわれわれの病を負い、

  われわれの悲しみをになった。

  しかるに、われわれは思った、

  彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

  しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、

  われわれの不義のために砕かれたのだ。

  彼はみずから懲らしめをうけて、

  われわれに平安を与え、

  その打たれた傷によって、

  われわれはいやされたのだ。」

     (旧約聖書イザヤ書53章3節〜15節)

 涙はひとりでながすものだと思っている人がいます。たしかに、人生のよろこびをともにわかち合ってくれる人は多くいても、人生の痛みや悲しみを真にわかち合うことのできる人はいないからです。しかし、ほんとうに涙はひとりで流すものなのでしょうか。決してそうではありません。イエス・キリストが今から二千年前この地上に誕生されたのは、実に、わたしたちとともに涙を流すためだったのです。

 重荷はひとりで背負うものだとあきらめているひとがいます。重荷を背負っていない人などはこの世におりません。しかし、重荷はひとりで背負わなければならないものなのでしょうか。そうではありません。イエス・キリストがそれらの重荷をともに背負ってくださるためにこの世においでになったのです。

 自分の不真実な生涯に悩み、罪を悔い、良心のかしゃくに耐えかねている人がいます。しかし、今から二千年前ベツレヘムの町に誕生されたわたしたちの救い主イエス・キリストが心のうちに誕生されるとき、わたしたちは、新しい人間として再び生き返ることができるのです。クリスマスは、その喜ばしいおとずれの記念日なのです。

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