預言の声聖書講座 第2部 第1課

1部で聖書の中心になっている「人間はいかにして救われるか」という問題を研究しましたが、第2部では人間自体の問題を更にくわしく研究するとともに、この世界の歴史にも目をむけてみたいと思います。聖書は単なる知識だけを与える本ではありません。神より人間に与えられたメッセージすなわち神よりの手紙または使命なのです。メッセージならばそれをいかに受けとるかということが大切な問題となってきます。聖書は伝達されたメッセージであるとともに、服従を要求する神の言葉です。

 またキリストは「神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、私自身から出たものか、わかるであろう」(ヨハネによる福音書7章17節)といわれました。すなわち聖書の意味を本当に理解するためには聖書の教えに従うことが大切です。聖書を学ぶ私たちの心構えや態度が正しくなければ、せっかく学んでも、それが私たちの心を養い、生活を生かすものとはならないのです。

1.種まきのたとえ

マタイによる福音書13章3節から9節までにキリストは種まきのたとえをお語リになりました。

 「見よ、種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍にもなった。耳のある者は聞くがよい」。

 このたとえ話は聖書を勉強する人のもつべき心の状態をよく説明しています。このたとえの種まきというのはキリストのことで種は神の言葉です。キリストは真理の種である神の言葉をまくために、地上においでになりました。種の中には植物の生命が宿っているように、神の言葉にも生命があります。土は人の心の状態を示していて、神の言葉である種が落ちたとき、それを受ける人の心の状態によって、神の言葉がその人の生活の中に実を結ぶこともあれば、実を結ぶことができない場合もあるのです。キリストはそれを四通りにわけてお話しになりました。

(1)道ばた

第一は道ばたに落ちた種です。道ばたの土は人や車にふまれてかたくなっています。そこに落ちた種は土の中にはいっていくことができません。同じように固くなった心には、神の言葉はその中にはいることができません。人の心をかたくするものはなんでしようか。

 神の言葉を受けいれることができなくするものはなんでしょうか。まず生活の忙しさです。道路は車や人の交通で忙しく落ちつきがありません。それと同じように現代人の生活は忙しいので、心に落ちつきとゆとりがありません。道ばたは世の中の動きに心がとらわれて、静かに聖書を研究することができない心の状態です。このような人は、聖書の言葉を読んでもそれに十分注意を集中することができません。そして鳥が来て道ばたの種をたべてしまうように、聖書の言葉はなんの印象も残さないまま失われてしまいます。

 聖書を読むときは、神の助けを求めて祈り、神が聖書の言葉の中で私たちにつたえようとしておいでになるメッセージをよく考えて、神のみこころを悟ることが大切です。また聖書をうけいれるのをさまたげるような書物や、聖書の示している道に反するような娯楽によっても、私たちの心の感受性はにぶくなり真理の言葉をう受けいれることができなくなります。

 預言者イザヤは「この民の心は鈍くなリ、その耳は聞えにくく、その目は閉じている」(マタイによる福音書13章15節)といいましたが、そのような心には神の言集もその力を与えることはできません。

(2)石地

 次は石地です。そこは土がわずかしかなく、その下は石がたくさんあるので、種が芽を出しても、深く根をおろすことができません。この石は自我の心です。自分の今までもっていた考えを固執すれば、神の言葉は私たちの心にはいることができません。聖書の勉強が、ほかの勉強とちがう点は、たとえば物理学を勉強する時は、自分は客観的な立場で、知識を吸収すればよいのですが、聖書を学ぶ時は、もちろんこれと同じような学び方をすることもできますがそれでは聖書の知識を得たというだけで、聖書がその人の本当の助けにはならないのです。世界的に有名な伝道者であったスタンレー・ジョーンズ博土が日本にきた時、日本にはキりスト教を信じないで神学を論じている人がいるといいましたが、このような人はキリスト教の真髄にふれることはできません。聖書を学ぶ時、そこに示されている真理に一つ一つ徒っていけば、私たちの生活が変わり、聖書の真実性を体験することができるのです。そのような体験を土台として私たちは聖書が真実の言葉であることをだんだん深く悟ることができます。もし私たちが自分の立場や自分の考えに固執していれば、石地に落ちた種のように、たとえ芽は出ても花が咲き実を結ぶという経騒を得ることはできないのです。そこで聖書を学ぶ時は、真理に対しておさなごのようなすなおさが必要です。

 キりストは「だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り製け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである(マタイによる福音書9章17節)といわれました。新しいぶどう酒は発酵して膨脹します。皮袋は古くなると弾力性を失ってひからびてしまいます。そんな袋に新しいぶどう酒を入れることはできません。ふどう酒が膨張して、皮袋ははりさけてしまうからです。これと同じように、キりストの教えは、罪の中にいる人間の生活に革命を起こす教えで、聖書は人間に全く新しい生き方を教えています。それを受けとめるには、柔軟な弾性のある心が必要です。ひからびてかたくなった皮袋のような、人間の固定観念を打破しなければ、キりストの教えを受けいれることはできないのです。

 やわらかな心をもって聖書の言葉を受けいれるならば、あなたの生活は充実し、いきいきしたものとなるのです。自己の固定観念を捨てて、すなおに徒うことによって、聖書の意味するところを本当に悟り、生活が変わるのを経検することができます。

(3)いばらの地

 第三はいばらの地ですが、いばらがおおいかぶさって、種の生長をさまたげるように、聖書の言葉が、私たちの心の中に成長していくのをさまたげるいばらがあります。キりストが指摘なさった、心のいばらについて、聖書記者ルカは「生活の心づかいや富や快楽」をあげておりまたマルコは「世の心づかいと富みの惑わし、その他いろいろな欲」をあげています。私たちは大なり小なりこのようないばらを持っています。

 この世の中に生活している以上、日々のパンのことも考えなければなりません。インフレの時代に家をもつためにはどうしたらよいか、また老後はどうするかという問題も心にかかるでしょう。しかしそのような心づかいを解決するために忙しく動きまわる前に、まず神のことばを熟心に求めるならば、日常生活の問趣も解決していくことができるのです。まず神の国と神の義とを求めなさいそうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう(マタイによる福音書6章33節)

 またここには富の惑わしといわれていますが、お金を得るために、聖書を学ぶ時間もなくなっている人がいます。この世の快楽や、いろいろな欲望のために、聖書の研完をはじめても中断する場合もあります。快楽や欲聖がすべて罪ではありませんが、私たちの存在の根本である神の言葉をおろそかにすることは危検です。

(4)土地の手入れ

 種まきのたとえを通してキリストは、同じ種をまかれても、それを受けとめる私たちの心の状態によって、その結果がちがってくることをお示しになりました。神の言葉を研究しても、私たちの心と生活になんの変化も起こらないとすれば、その原因は私たちにあるのです。「大切なことは神の言葉をうけいれようとする心の準備です。聖書は「あなたがたの新田を耕せ(耕地を開拓せよ・新改訳聖書)、いばらの中に種をまくな」(エレミヤ書4章3節)とすすめています。

 キリストの生涯をふりかえって考えてください。そこにあらわされた人間に対する比類のない愛がわかると、かたい心がやわらげられまず。石地のような自我やいばらのような、さまたげを取り去っていただき、いつも神の言葉によって成長できるように、土地の手入れをしないと、聖書の研究は実を結ばないのです。

(5)よい地

 よい地というのは御言を聞いて悟る人のことである(マタイによる福言書13章23節)御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである(ルカによる福音書8章15節)とあります。このような人々はまじめに真理を学び、それに従おうとする人です。キりストの言葉を聞いても、それを拒んで、その意味を悟ることができない人がありました。

 初期の教会の一つであるテサロニケの教会で人々は聖書が神の言葉であることを信じて受けいれました。指導者であったパウロはそれを人間の言葉としてではなく、神の言として−事実そのとおリであるが−受けいれてくれた(テサロニケ人ヘの第1の手紙2章13節)と書いています。聖書を自分に語りかける神のメッセージとして受けるということが、聖書を本当に学ぶということなのです。パウロはそんな態度で聖書を学んだテサロニケの人々のことを「この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである」(テサロニケ人ヘの第1の手紙2章13節)といいました。これはすばらしい経験です。聖書の言葉が私たちの生活の中で、生きたものとなるのです。

 私の学生時代に化学の実験をはじめた時のことを思い出します。今まで教科書をみて文字の上で理解していたことが、目の前の試験管の中で事実となってあらわれてくるのをみた時、強い印象をうけました。聖書の中に書かれた文字も、私たちの生活という大きな実験室で、事実となってあらわれてきます。そしてすばらしい人生がかたちづぐられていくのです。

 また聖書の中心人物であるイエス・キりストが、私たちにとって生きた実在となります。そして聖書の研究は神と支わる有力な手段となります。「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、私の父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう」(∃ハネによる福音書14章23節)とキリストは言われました。ここに神とのすばらしい支わりの経験があるのです

2.聖書の研究について注意すべきこと

同じ聖書を読んでいながら、いろいろちがった考えをもっている人々がいます。それは、たいていの場合聖書の研究方法が正しくない結果です。そこで、聖書を研究するにあたっての原則的なことを次に考えてみたいと思います。

(1)神の助けが必要−祈ること

 聖書は神の霊感によって与えられたものですから、これを本当に理解するためには、これをお与えになった神の助けが必要です。聖書を研究する前には、必ず神のみちびきを求めて、お祈りしてください。

(2)聖書の教えを実行する態度

 序のところで述べたように、神のみこころを実行することが大切です。ある事柄は実際に体験してみなければわかりません。たとえばミルクの味を説明することはある程度できますが、一度もミルクを味わったことがない人に十分わからせることは困難です。1部で人間回復の設階として悔い改めについて学びました。説明によってある程度わかっていただいたと思いますが、実際その経験をしなければ、本当にはわかりません。罪が許された喜こびと平安も、実際に体験しなければ本当に理解することはできません。前にも述べたようにこの点は聖書の勉強とほかの勉強との大きなちがいです。

(3)前後関係をよくしらべること

 聖書の意味を知るためには、一つの聖句だけをとりあげてその意味を考えるのでなく、その前後をよく読んで、全体からその聖句の意味を判断することが大切です。またわかりやすい言葉でも、それが語られた背景がわかると、もっと深くその意味を理解することができます。その言葉が語られた時代的背景を聖書以外の文献から学ぶことも、聖書の言葉の理解に役立つことがあります。

(4)調和する解釈

 聖書は多くの人が書きましたが本当の著者は神です。したがってその言葉に矛盾はないはずです。一つの聖句の意味がいく通りにもとられる時には、それに関連のある聖句を出来るだけ多く調べて、全体に調和がある解釈をとるべきです。聖書の批評家たちは矛盾のある解釈を採用して、聖書には矛盾があるといいますが、聖書全体をみれば調和ある解釈ができるはずですし、ある時点でわからなかったことも、研究が進んでわかるということもあります。しかし人間の救いや、聖書の主要な問題については疑問はあリません。

(5)聖句で聖句を解釈する

 一つの聖句にでている言葉を他の聖句が説明している場合がしばしばあります、それで聖句と聖句を比較してその意味を悟ることができます。

(6)研究の助けを用いること

 この講座も研究の助けとして書かれたものですが、自分で聖書を研究する時は、どの聖句がどこにあるかについて書かれた辞典−聖書語句辞典−はよい助けになります。また聖書の書かれたパレスチナの地図とか、その当時の年代表なども助けになります。

(7)不断の研究

 たえず聖書を読むことは、聖書に対する興味を養う最もよい手段です。小さい聖書をいつももっていて、機会あるごとに読み、それについて考えることはいい習慣です。


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